ドクターズコラム

2016年夏「廣島とヒロシマと広島と」

私は大学生活の6年間を広島市で過ごしました。静岡県に生まれた18才の私が広島に行こうと思ったのには理由がありました。それは高校生の時に課題図書として読んだ「黒い雨」と「ヒロシマ・ノート」でした。前者は一人の被爆女性が背負った差別や病いを通じて、原爆の残酷さ、平和への願いを淡々と綴った井伏鱒二の小説です。後者は若き大江健三郎が広島を取材、被爆者達の体験談に心を動かされ人間の尊厳について深く洞察したものです。先の戦争は「応仁の乱」とうそぶく京都人には分かりにくいかもしれませんが、広島や長崎の一般市民が被った原爆(ピカドン)は、一瞬にして数十万の生命を奪い去る壮絶なものでした。それは生存者にも過酷な人生を強い、現在まで続いています(2才で被爆、12才で白血病で亡くなった佐々木禎子さんはその象徴です)。今年の5月27日のオバマ大統領の広島訪問、白い慰霊碑の前での被爆者との抱擁という歴史的瞬間は、私にも初めて広島平和公園を訪れた時の感動を久しぶりに思い起こさせました。私は、これは彼がマイノリテイー出身の大統領だからこそできた行為だったのではないかと思いました。米国の黒人が味わった差別と苦難の歴史は「過ちは 繰返しませぬから」という共通の祈りに繋がったのではないでしょうか。

私の義父は原爆を目撃し、会社の命令で翌日市内に入りました。阿鼻叫喚の現場を目撃した義父は子供達へ多くを語りませんでしたが、数十年後放射能の影響かと思われる稀な病気を病み亡くなりました。大江健三郎が「ヒロシマ的なるもの」と名付けたのは、被爆者自身にも簡単には言葉にできない感情であり、まして部外者がおろそかに表現できない、しかし絶対に後世に伝えなければならない平和へのメッセージだったと思います。

廣島県人は、戦前、ハワイやブラジルへの移民も多く進取の気性が強い県民性があります。軍都廣島が、原爆投下により聖地ヒロシマとなり、さらに経済都市広島となりました。私の学生時代は古葉監督率いる広島カープが日本シリーズ二連覇した黄金期でした。昔の広島市民球場は太田川に近く、夏は蒸し暑い夜の熱気に包まれるのですが、真っ暗な原爆ドームのすぐ北側にあり、帰り路にはそのコントラストが何とも不思議でした。そんな広島で、やがて私自身にも運命の日がやってきたのですが。

震災や犯罪などの被害者、病いを持った人間が差別を受けやすいという構図は普遍的です。深刻な病を持った人は病気自身に苦しむと同時に、周囲の差別に苦しみ、えてして怒りや無力感などを持ちます。医学生時代の私のテーマは患者学でした。病院環境を調べたり、精神病院や障害者施設を見学したりしていました。医師となって30年、あらためて患者さんを病いを持った一人の人間として理解し診療していかなければならないと思っています。もうすぐまたあの暑い原爆の日がやってきます。



第48号 しまばら通信より・2016年 夏

<このコラムの執筆:循環器科部長 山田 武彦

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